ネットで検索すると、たくさんの競馬の名言が出てきます。その中で一番胸に響く名言はこれでした。
「人にきいて取りたる二百円は、自分の鑑定にて取りたる五十円にも劣るべし」(菊池寛)
競馬狂の真髄を表している精神かもしれませんね。自分の目が正しかった、それだけを証明したい。配当がどうとかは関係ない。ただ自分が見たことが正しかったと2分後に証明したい・・・なんて。
講道館柔道の創始者嘉納治五郎氏の言葉にこんなのがある。

順道制勝とは、
勝つにしても道に順って勝ち、負けるにしても道に順って負けなければならぬ。
負けても道に順って負ければ、道に背いて勝ったより価値があるのである。
この嘉納治五郎氏の言葉などは冒頭の菊池寛の言葉と相通ずるものがありはしないか。ただ勝ちゃいいってもんじゃないんだ。正しい過程を踏んで予測し、結果を正しく予測する。結果の予測が外れても、道に背いて「人に聞いて」勝っても意味がねぇ。
いかがでしょうか。以下、少し気になる競馬の名言と私が考えるものを挙げておきたい。
血統だ、調教だなんていろんなことを言う人がいるけど、結局、競馬は記憶のゲーム。
レベルの高いレースをどれだけ覚えているかに尽きる。
競走馬の名前を羅列して鼻高々の輩がいるが、そんなものは馬券の勝負において、クソの役にも立たん。競馬歴も関係ない。レベルが高いレースをどれだけ記憶して体に焼き付けているか。つまり基準があるかどうか。競走馬の世代間の優劣も牡牝の違いも関係ない。いくつ基準になるレースを記憶しているかで目の前のレースも過去のレースも判断する、自分の記憶に従って。
自分の記憶を抜きにすれば、競馬は調べれば調べるほど、詳しくなればなるほど、知れば知るほど、馬券は本命党に傾いていく。そうならざるを得ない。そこにスパイスを効かせるのが記憶だ。記憶なく競馬を見るなど愚か者でしかないというと言い過ぎだろうか。
新聞の馬柱に惑わされることなかれ。山口瞳先生も言っているじゃないか。
とにかく、勝負事は、自分の型をもっていればツキが廻ってくるものである。(山口瞳)
ツキは獲りにいくもんじゃない。廻ってくるもの。廻ってきたものを獲るには型がいる。その型の土台はレースの記憶だ。土台がなければ型もない。型がなければツキは廻ってこない。ツキが廻ってこないから他人の印に身を投げる。勝てば金が残るが、身を投げて、自分を捨てて負ければ、ただのクソッタレだ。嘉納治五郎は言ったじゃないか。「負けても道に順って負ければ、道に背いて勝ったより価値があるのである」と。
道に順うこと、すなわち型であります。山口瞳先生の父は山口先生に言ったという。
どんなことがあったって、根拠のない馬券を買うわけにはいかない。(山口瞳の父親)
競馬界は根拠があろうがなかろうが、馬券が売上があがれば喜ぶが、ギャンブラーはそうはいかない。記憶をたどり、型を応用して自らの予測で2分間耐えて見る。
さあ、BAOO博多で己の力を試そうじゃないか。あなたの型は通用するのかどうか。
負けたっていいじゃないか、その負けが道に順っているならば。押忍。

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