佐賀競馬で1月に花吹雪賞が実施されましたが、「花吹雪」と聞いて、そんな題名の短い小説を以前読んだことがあったなあと思って、ネットで検索してみたら、それは太宰治の『花吹雪』だった。
青空文庫が「太宰治全集5」からネットでも読める「花吹雪」を掲載してくれていますので、ぜひ読んでもらいたい。

Wikipediaによれば、『花吹雪』は『改造』1943年7月号に発表する予定で、原稿も改造社に渡してあったが、結局掲載はされなかったとあります。本作『花吹雪』は、太宰治の短編小説「黄村先生」シリーズの1つだそうで、これもWikipediaによれば、「黄村」が「大損」にかけた言葉であることを思わせることから、彼の名前は「おうそんせんせい」と読むのが通例である、と教えてくれます。
まあ、それはさておき、この『花吹雪』、言葉のイメージから想像すると、さわやかな春の風を想像させますが、内容は「自己破滅型の私小説作家」といわれ、38歳で女性と玉川上水で入水した太宰治の真骨頂と思われる部分が随所にみられ、なかなかおもしろいんです。
人間のダメなところを徹底的にほじくり返して、これでもかっていうくらい見せてくれる太宰治らしい小説といえるんじゃなかろうか。個人的にはものすごく好きですね。
全文は短いの読んでいただくとして、特に面白かった部分を以下に紹介します。

太宰治著『花吹雪』は冒頭
花吹雪という言葉と同時に、思い出すのは勿来
の関である。
花吹雪を浴びて駒を進める八幡太郎義家の姿は、日本武士道の象徴かも知れない。
けれども、この度の私の物語の主人公は、桜の花吹雪を浴びて闘うところだけは少し義家に似ているが、頗
る弱い人物である。
からはじまります。

吹く風を 勿来の関と思へども 路も狭に散る 山桜かな(ふくかぜを なこそのせきと おもへども みちもせにちる やまさくらかな)と詠んだといわれる武の男、八幡太郎義家からはじまるところがこのあとの自堕落な男を一層引き立たせるからなおいいですなあ。
歌川国芳画『関屋 源義家朝臣』

「ふくかせを なこそのせきと おもへとも みちもせにちる やまさくらかな」を描いたとされる。
太宰治「花吹雪」より
剣聖の書遺した「独行道」と一条ずつ引較べて読んでみて下さい。
不真面目な酔いどれ調にも似ているが、真理は、笑いながら語っても真理だ。
この愚者のいつわらざる告白も、賢明なる読者諸君に対して、いささかでも反省の資料になってくれたら幸甚である。
幼童のもて遊ぶ伊呂波歌留多にもあるならずや、ひ、人の振り見てわが振り直せ、と。
作中、【男は、武術。之の修行を怠っている男は永遠に無価値である、と黄村先生に教え諭され】も、その【見込みが無】く、いささか【うんざりした】男が剣聖・宮本武蔵が遺した遺訓を引き合いに自らの「道」を吟ずる場面がいいんですわ。
太宰治「花吹雪」より
むかしの武士は、血を吐きながらでも道場へかよったものだ。
宮本武蔵だって、病身だったのだ。自分の非力を補足するために、かの二刀流を案出したとかいう話さえ聞いている。
武蔵の「独行道」を読んだか。
剣の名人は、そのまま人生の達人だ。
一、世々の道に背くことなし。
二、万ず依怙の心なし。
三、身に楽をたくまず。
四、一生の間欲心なし。
五、我事に於て後悔せず。
六、善悪につき他を妬まず。
七、何の道にも別を悲まず。
八、自他ともに恨みかこつ心なし。
九、恋慕の思なし。
十、物事に数奇好みなし。
十一、居宅に望なし。
十二、身一つに美食を好まず。
十三、旧き道具を所持せず。
十四、我身にとり物を忌むことなし。
十五、兵具は格別、余の道具たしなまず。
十六、道にあたって死を厭わず。
十七、老後財宝所領に心なし。
十八、神仏を尊み神仏を頼まず。
十九、心常に兵法の道を離れず。
男子の模範とはまさにかくの如き心境の人を言うのであろう。それに較べて私はどうだろう。お話にも何もならぬ。
われながら呆れて、再び日頃の汚濁の心境に落ち込まぬよう、自戒の厳粛の意図を以って左に私の十九箇条を列記しよう。
愚者の懺悔だ。神も、賢者も、おゆるし下さい。
一、世々の道は知らぬ。教えられても、へんにてれて、実行せぬ。
二、万ずに依怙の心あり。生意気な若い詩人たちを毛嫌いする事はなはだし。内気な、勉強家の二、三の学生に対してだけは、にこにこする。
三、身の安楽ばかりを考える。一家中に於いて、子供よりも早く寝て、そうして誰よりもおそく起きる事がある。女房が病気をすると怒る。早くなおらないと承知しないぞ、と脅迫めいた事を口走る。女房に寝込まれると亭主の雑事が多くなる故なり。思索にふけると称して、毛布にくるまって横たわり、いびきをかいている事あり。
四、慾の深き事、常軌を逸したるところあり。玩具屋の前に立ちて、あれもいや、これもいや、それでは何がいいのだと問われて、空のお月様を指差す子供と相通うところあり。大慾は無慾にさも似たり。
五、我、ことごとに後悔す。天魔に魅いられたる者の如し。きっと後悔すると知りながら、ふらりと踏込んで、さらに大いに後悔する。後悔の味も、やめられぬものと見えたり。
とりあえず5つ挙げてみたが、どうでしょうか? おもしろくない!? ここまでドギつく自分を把握できて認識できてたら、逆に立派と思えるがどうでしょうか?
まだあるから全部紹介しますよ。
太宰治「花吹雪」より
六、妬むにはあらねど、いかなるわけか、成功者の悪口を言う傾向あり。
七、「サヨナラだけが人生だ」という先輩の詩句を口ずさみて酔泣きせし事あり。
八、他をも恨めども、自らを恨むこと我より甚しきはあるまじ。
九、起きてみつ寝てみつ胸中に恋慕の情絶える事無し。されども、すべて淡き空想に終るなり。およそ婦女子にもてざる事、わが右に出ずる者はあるまじ。顔面の大きすぎる故か。げせぬ事なり。やむなく我は堅人を装わんとす。
十、数奇好み無からんと欲するも得ざるなり。美酒を好む。濁酒も辞せず。
ハハハ、いいねえ。ここまでくると笑っちゃう!(^^)! まだあるよ!
あなたはいくつ当てはまるかな?
太宰治「花吹雪」より
十一、わが居宅は六畳、四畳半、三畳の三部屋なり。いま一部屋欲しと思わぬわけにもあらず。子供の騒ぎ廻る部屋にて仕事をするはいたく難儀にして、引越そうか、とふっと思う事あれども、わが前途の収入も心細ければ、また、無類のおっくうがりの男なれば、すべて沙汰やみとなるなり。一部屋欲しと思う心はたしかにあり。居宅に望なき人の心境とはおのずから万里の距離あり。
十二、あながち美食を好むにはあらねど、きょうのおかずは? と一個の男子が、台所に向って問を発せし事あるを告白す。下品の極なり。慚愧に堪えず。
十三、わが家に旧き道具の一つも無きは、われに売却の悪癖あるが故なり。蔵書の売却の如きは最も頻繁なり。少しでも佳き値に売りたく、そのねばる事、われながら浅まし。物慾皆無にして、諸道具への愛着の念を断ち切り涼しく過し居れる人と、形はやや相似たれども、その心境の深浅の差は、まさに千尋なり。
十四、わが身にとりて忌むもの多し。犬、蛇、毛虫、このごろのまた蠅のうるさき事よ。ほら吹き、最もきらい也。
十五、わが家に書画骨董の類の絶無なるは、主人の吝嗇の故なり。お皿一枚に五十円、百円、否、万金をさえ投ずる人の気持は、ついに主人の不可解とするところの如し、某日、この主人は一友を訪れたり。友は中庭の美事なる薔薇数輪を手折りて、手土産に与えんとするを、この主人の固辞して曰く、野菜ならばもらってもよい。以て全豹を推すべし。かの剣聖が武具の他の一切の道具をしりぞけし一すじの精進の心と似て非なること明白なり。なおまた、この男には当分武具は禁物なり。気違いに刃物の譬えもあるなり。何をするかわかったものに非ず。弱き犬はよく人を噛むものなり。
十六、死は敢えて厭うところのものに非ず。生き残った妻子は、ふびんなれども致し方なし。然れども今は、戦死の他の死はゆるされぬ。故に怺えて生きて居るなり。この命、今はなんとかしてお国の役に立ちたし。この一箇条、敢えて剣聖にゆずらじと思うものの、また考えてみると、死にたくない命をも捨てなければならぬところに尊さがあるので、なんでもかんでも死にたくて、うろうろ死場所を捜し廻っているのは自分勝手のわがままで、ああ、この一箇条もやっぱり駄目なり。
十七、老後の財宝所領に心掛けるどころか、目前の日々の暮しに肝胆を砕いている有様で苦笑の他は無いが、けれども、老後あるいは私の死後、家族の困らぬ程度の財産は、あったほうがよいとひそかに思っている。けれども、財産を遺すなどは私にとって奇蹟に近い。財産は無くとも、仕事が残っておれば、なんとかなるんじゃないかしら、などと甘い、あどけない空想をしているんだから之も落第。
十八、苦しい時の神だのみさ。もっとも一生くるしいかも知れないのだから、一生、神仏を忘れないとしても、それだって神仏を頼むほうだ。剣聖の心境に背馳すること千万なり。
十九、恥ずかしながらわが敵は、廚房に在り。之をだまして、怒らせず、以てわが働きの貧しさをごまかそうとするのが、私の兵法の全部である。之と争って、時われに利あらず、旗を巻いて家を飛び出し、近くの井の頭公園の池畔をひとり逍遥している時の気持の暗さは類が無い。全世界の苦悩をひとりで背負っているみたいに深刻な顔をして歩いて、しきりに夫婦喧嘩の後始末に就いて工夫をこらしているのだから話にならない。よろず、ただ呆れたるより他のことは無しである。
以前ここで紹介した乗峯栄一流【ギャンブル依存症診断】に通ずるところがあるねえ。
太宰治は「人生の達人」ですな。私もこれらにほとんど当てはまる。あんまりにも自分が見えすぎていて、さぞ人生が辛かったろうと想像します。たとえこれらが全部当てはまったとしても、シレっと素知らぬ顔して生きていたらよかったのにねえ。
その意味では、太宰治は頗るまじめな方だったんだろうと思います。仕方がないじゃないかとは思えない生真面目さがあったんでしょうね。

でも、太宰が書いた人物よりも自堕落な人間は世の中に掃いて捨てるほどいるし、みんな今日も生きてるからね。真面目は自分を差す刃になるね。真面目もほどほどにしないとさ。
じゃあ、気分転換にBAOO博多で地方競馬の馬券でも買っちゃいますか!
うん、それがいいね。ご来場お待ちしておりますよ。
