現役ケンタッキーダービー馬が来日したら、事件です。https://t.co/jVEQ6V9ZLL
— 佐藤泉 (@sato_izumi) October 13, 2022
競馬の写真の中でも、個人的にはもっとも印象深いといっていい写真です。ホントかどうか知らないけれど31馬身差。ネットで記録を見ると、セクレタリアト(Secretariat)1973年の3歳の三冠戦はすべてをレコード勝ちして三冠を達成、なかでも3戦目のベルモントステークスで2着に31馬身差をつけて勝ったことがよく知られている、とあります。

実際の映像がこちら👇👇👇
障害戦ですけど30馬身差というレースを現代の映像で見てみてください。
🇫🇷オートゥイユ競馬場の障害戦、30馬身差。pic.twitter.com/4kBajlBrYY
— netkeiba (@netkeiba) October 20, 2022
この圧倒的な強さは当然ながら競馬界を越えて、社会全体に波及していきました。いわゆるスターホースの誕生ですね。日本では少し前のディープインパクトに該当するかもしれません。競馬のことは興味なくても、多くの国民がその名と圧倒的な強さは知っているという感じですね。
社会現象ともなったセクレタリアトはその後のアメリカの競馬界にさまざまな現象を巻き起こしていきます。当時としては異例の早期引退、種牡馬としての引退生活、アメリカ競馬の迷走…etc
そのセクレタリアトにまつわる事象を激辛の競馬コラムニストが1冊の本にまとめあげたのが『ホース・トレーダーズ―アメリカ競馬を変えた男たち』です。

そんなアメリカ競馬界の動きを本書を通じて克明に描き出したのが、ニューヨーク・タイムズ紙の競馬コラムニスト、スティーヴン・クリストである。
以前プロのジャズピアニストだったこともあるニューヨーク生まれのクリストは、痛烈でかつユーモラスな筆致の異色コラムニストとして知られ、ファンも多いという。本書のなかで彼はアメリカ三冠のあり方にスポットをあて、伝統主義に批判の目を向けながらも、レースの真の価値とは何なのかを、読者に再三問いかけてきた。
アメリカはいま、政治、経済、社会のあらゆる面において、モラルを重視する伝統派の価値観と、現実を直視する現代派の価値観のはざまで大きく揺れ動いている。むろん競馬もその例外ではない。スペンドアベックのオーナー、デニス・ディアスが突き当たったジレンマは、すなわちクリスト自身の、そしてアメリカのジレンマでもあるのではないだろうか。
【 #英チャンピオンS 】まさかの結末! #バーイード がラストランで4着に敗れる https://t.co/uRP8vxCPyS#東スポ競馬 #競馬
— 東スポ競馬 (@tospo_keiba) October 15, 2022
純粋なスポーツとしての競馬と大金が蠢く競馬ビジネスの境界はいつの時代でもさまざまな議論を巻き起こしていくものですが、アメリカの社会の変遷とともにアメリカ競馬界もどんどん進化(進化といってよいのか?)していくさまは実におもしろい。こうした本が翻訳されて刊行されていることに感謝したいですね。また本書ではこれまでのアメリカの競馬の歴史を概観もできるので当時のアメリカ競馬人の熱を感じつつ、読み進めることもできます。
ご承知の通り、日本は売上でみると、世界一の競馬馬券大国で馬券に費やされるお金は最も多い国といえます、
・・・・有馬記念は世界一馬券が売れるレースとして知られており、直近の2018年度では436億円でした。
ピークの売上を記録したのはサクラローレルが勝った1996年で、なんと875億円。
これは世界競馬史上最高としてギネスブックにも載っています。
・・・有馬記念に限らず、日本の馬券売上は世界と比較しても尋常ではない規模なんです。
少し古い内容になりますが、1998年度における日本の中央競馬は334.1億ドル(およそ3.8兆円 !!)で、2番手のアメリカでも131.1億ドルとなっており3倍近い規模となっています。
主要な国を挙げると、105.0億ドルの香港が3位、85.0億ドルの英国が4位、71.1億ドルのオーストラリアが5位と続いていました。
レース賞金の面で見ても、1レース当たりの平均総賞金額は21.8万ドルであり、アメリカの1.6万ドルや英国の1.6万ドルと比べてしまうと文字通り桁違いです。日本では、最も賞金の少ない2歳の未勝利戦でも1着賞金が500万円を超えており、海外ではG1でもこの賞金水準の国はざらにあります。
馬券の売上が賞金を押し上げているのが日本というわけです。ただ馬券の売り方、映像の流し方など競馬運営のノウハウはアメリカが世界一と思います。ビジネスとしていかに大金に結び付けるかの視点は日本はまるでかなわない。そんなことも頭の片隅に入れながら読んでいただくと、本書は一層楽しめると思います。
ジャパンカップ予備登録の凱旋門賞馬アルピ二スタの苦悩 「ビッグマネー」か「繁殖牝馬としての価値」か https://t.co/jBuQlq412e
— BAOO博多(公式) (@BAOO65068550) October 14, 2022
ここでは本書の中からいくつかのエピソードを紹介したいと思います。
ちなみに本書『ホース・トレーダーズ―アメリカ競馬を変えた男たち』は1988年2月発売でサラブレッド血統センター刊です。セクレタリアトの戦績を確認しながら、以下読み進め下さい。

【注】以下、使用される〈シンジケート〉は、主に種牡馬について組織される株主の集まりのことで、1頭の種牡馬を数十株に分けて分配し、その保有株数に応じて種付けの権利を得る。
スティーヴン・クリスト著『ホース・トレーダーズ―アメリカ競馬を変えた男たち』より
・・・シンジケートがまとめられている間は、三冠路線を目指すセクレタリアトのためにローリン調教師が立てておいた計画も棚上げの状態だった。
この馬は(1972年)11月の末に南のフロリダへ移っていたが、当初の予定では、少し休養を与えてから(1973年)2月末と3月にそこで二回使って、そのあとニューヨークへ戻り、ダービーの最終調整としてウッド・メモリアル・ステークスを目指すことになっていた。
しかし、シンジケートを組み終わらないうちは、セス・ハンコックもペニー・チェナリーもセクレタリアトを走らせたくなかった。もし契約に署名されないうちにだらしのないレースをしたり、あるいは故障でもしたら、それこそ一大事である。シンジケートが完了したのは二月末になったので、セクレタリアトはフロリダで走れなくなってしまった。
1マイル1/8のフラミンゴ・ステークスに出すならその前に一度短いレースで叩いておかなければならないが、条件に当てはまるレースは全部終わっていた。そこでチェナリー夫人とローリンは、これから前哨戦が三つ続けて行われることになっていたニューヨークへ送り、春のクラシックに向けて完全に仕上げることにする。
セクレタリアトの4歳緒戦はアケダクト競馬場のベイ・ショア・ステークスだった。結果は着差4と1/2馬身、それもデイリー・レーシング・フォームの公式成績表には「ほとんど追ったところなし」と記されるほどの楽勝だったので、シンジケート会員はほっと胸をなでおろした。7ハロンのレースで1分23秒1/5の勝ち時計は特に優秀とはいえないが、4か月の休養明け緒戦のものとしては文句のつけようがない。三週後に出走したアケダクト競馬場のゴータム・ステークスでは、珍しくスタートから先頭に立つと、初めの6ハロンを1分8秒3/5と驚異的な速さで飛ばし、1マイルを1分8秒秀で勝った。このタイムは同競馬場で走った四歳馬のものとしては最高で、トラックレコードとタイの記録である。
二週後のウッド・メモリアル・ステークスでは、セクレタリアトの楽勝は確実とみられていたが、今回注目されるのは、セクレタリアトと、カリフォルニアの強豪シャムとの初対決である。シャムは昨11月に開かれたブル・ハンコックのディスパーサル・セールで売りに出された馬だった。牡駒は二歳で売りに出し、牝駒だけをレースに使って良い馬だけ繁殖に用いること、とブルは遺言していた。彼としてはリスクの大きい競馬に息子を深入りさせたくなかった―言い換えれば、息子たちでは生産だけでも苦労するだろうと考えていたのだ。シャムはニューヨークの不動産開発業者、シグモンド・ソマーに20万ドルで落札され、カリフォルニアで冬を過ごした。そんなわけで、クレイボーンの生産馬が、クレイボーンが608万ドルでシンジケートを組んだ馬にとって最大の脅威になったのである。
・・・・・・ウッド・メモリアルの当日。エンジェルライトは楽にリードを取った。だが、いずれセクレタリアトとシャムがつかまえにくるだろう、とだれもが両馬の動きを注目している。まずシャムが二番手に上がった。ところが、前の馬をなかなかかわせない。セクレタリアトはといえば、後方のままである。直線に差しかかったところでロン・ターコット騎手はいつものように追い出しにかかったが、セクレタリアトは馬が変わってしまったかのように伸びを欠き、最後まで持ち前のジェットエンジンが火を噴くことはなかった。シャムを頭差抑えて一着になったのはエンジェルライト、セクレタリアトはそれより4馬身遅れた三着に沈む。
ウィナーズ・サークルにいながら惨めに見える人間などめったにいるものではないが、その日のローリンはまさにそれだった。
ローリンもチェナリーも、出走当時セクレタリアトの上唇に直径五ミリほどのできものがあったことに気づいていなかったし、レースが終わって何日か後に発見されたときでさえ、そのせいで負けたのだとは思えなかった。ウッド・メモリアルでは距離の延長も二度のコーナーワークも初めての経験だったので、そんな結果になるだろうと予想していた生産者もいた。セクレタリアトはボールドルーラー産駒の例にもれず、1マイルまでなら非凡でも、それ以上の距離には適さないというのである。本当のところはどうあれ、この馬の種付け権利と引き換えに19万ドル支払うことを承諾した会員をはじめ関係者全員、そしてクレイボーンの新場主として情熱をもって契約をとりまとめてきたセスにとって、ダービーまでの14日間は居ても立ってもいられない緊張の日々だった。セスは常々、「馬が自分のレースをしていないときには、必ず何か原因がある」と考えていたので、ダービーでは巻き返してくれるものと信じて、望みを繋げていられたのだった。
1973/03/17 ベイショアS G3 1着 ダ1400m
1973/04/07 ゴーサムS G2 1着 ダ1600m
1973/04/21 ウッドメモリアルS G2 3着 ダ1800m
シンジケートがまとめられている間、セクレタリアトは上記過程を経て、いよいよ1973年5月5日のケンタッキーダービーに向かったわけですね。関係者は「ダービーまでの14日間は居ても立ってもいられない緊張の日々」を過ごしながら。
そして、セクレタリアトはケンタッキーダービーに出走し、期待通りに勝った。そのあとさらに2週間後のプリークネスSもベルモントSも勝って、3冠馬になった。
1973/05/19 プリークネスS G1 1着 ダ1900m
1973/06/09 ベルモントS G1 1着 ダ2400m
冒頭で掲げた写真はすでに書いたように3冠戦の3戦目のベルモントステークスで2着に31馬身差をつけて勝った写真です。このときの走破タイム、ダート12ハロン(約2414メートル)2分24秒0は世界記録で、たしかまだ破られていない記録として残っているんじゃなかったでしたっけ。
スティーヴン・クリスト著『ホース・トレーダーズ―アメリカ競馬を変えた男たち』より
・・・シンジケートの規約では、セクレタリアトを翌年から種牡馬にすること、つまり四歳いっぱいで引退させること、と定められていた。ペニー・チェナリーは、競走馬としての使い方については引き続き自分で決めたがっていたが、年内で引退させることに異論はなかった。
一株に19万ドル支払った会員たちが、一年でも早く利益をあげたがるのも無理はない。三冠シリーズで善戦すればこの馬の価値はそこで最高になる。もし活躍できないようなら、そこから価値が下がらないうちに、またもう一年期待はずれのシーズンを重ねて年度代表馬のタイトルと三歳時の輝かしい成績が色褪せないうちに、種牡馬にしてしまう方が賢明だろう。
アメリカの一流馬がこんなに早くから引退の時期を決めるのは初めてのことだったし、それがシンジケート規約で定められたのも今回が初めてである。従来はこれと反対に、勝ち鞍と賞金を増やせる機会をできるだけ馬に与えるのが普通だった。
1948年の三冠馬サイテーションは、競馬史上初の収得賞金100万ドル突破を目指して苛酷にも七歳まで使われた。それで種牡馬としての価値が著しく高まるわけではなかったが、それこそスポーツ精神にのっとった姿勢であり、記録への挑戦でもあった。ソエに泣かされ続けてきたボールドルーラーが五歳になっても走ったのは、できる限り能力を引き出し、一流馬としての競走生活を全うするためにほかならなかった。
しかし、セクレタリアトは勝っても負けても、四歳シーズンが終われば牧場へ戻ることになっている。競馬と生産の間に成り立っていた方程式は一夜にして変わってしまったのだ。四歳になってまだ一戦もしていない馬につけられた600万ドルを超える価格は、競走馬の最高収得賞金額のほぼ三倍に相当する。三年前、ノーザンダンサー産駒のニジンスキーが四歳のときに、ブルは540万ドルでシンジケートを組んだが、同馬は当時すでにエプソム・ダービーに勝っていたし、その後には35年ぶりにイギリスの三冠馬になれる見込みが十分あった。セクレタリアトの株は、そこまでいかないうちに、それより高い価格で売却が完了していたのである。
これだけ若い馬がこれだけ高く売れたのを境に、産業のあり方が大きく変わったといっても過言ではない。
しかし、もう一つ忘れてならないのは、早期の引退を義務づけられたことである。この引退宣言はスポーツ精神とまったく関係のない立場から決められたもので、絡んでいたのは金、ただそれだけだったし、そんな決定が出されてもファンの不評を買うだけだった。それまでも競馬というゲームと馬産産業の間には一線が画されてきたが、それから十二年の歳月を経て、セス・ハンコックがデヴィルズバッグのシンジケートを組むころには、両者のギャップはさらに広がっていた。彼が四歳になったばかりの馬にシンジケートを組むのは、デヴィルズバッグが二度目であると同時に最後でもあった。
馬の年齢、いわゆる馬齢は、昔は数え年で数えられていましたが、2001年度から国際化の一環で【数え年⇒満年齢】にかわったので、現在は生まれた年を0歳と数え、その馬が生まれた年の1月1日から年齢を起算する。
このため、今の3歳馬が4歳となるはずです。本書では「四歳いっぱいで引退」とありましたが、現在の馬齢でいえば、セクレタリアトは3歳で引退したんですね。
特筆すべき点を1つ挙げれば、セクレタリアトは引退直前の2戦で芝で快勝していること。種牡馬として新しいな可能性を開いた後で引退したといえます。まあ、金のためではあるんですが・・・
スティーヴン・クリスト著『ホース・トレーダーズ―アメリカ競馬を変えた男たち』より
セクレタリアトは前代未聞の大幅なレコード更新を二度やってのけた。一度目は2分6秒の記録を樹立したベルモント・ステークス。そして二度目では二歳馬のレコード価格を71万5000ドルから150万ドルに跳ね上げた。いまやまだ走っていない馬でも、売ろうと思えば競馬で稼ぐ賞金とほぼ同額で売ることができるのである。たったそれだけの事実のために、競馬に投資していた者たちはたちまち金儲けに走った。ロマン派やスポーツ派は一万ドルで馬を買って自分の服色で走らせ、十倍、百倍の儲けに夢を馳せる。
しかしいまでは、それまでリスクの大きさから競馬を嫌っていた投資家まで、馬の売買に手を出すようになった。投資家は競馬を経済とみなし、産業として扱う。彼らにとってその産業は、発射台に載ったロケットも同然だったのである。彼らにとっては、セクレタリアトこそ、その産業を担う馬だった。
スティーヴン・クリスト著『ホース・トレーダーズ―アメリカ競馬を変えた男たち』より
たいていのサラブレッドは何かしら肉体的な欠点を持っているものである。なかには目立つものもあるが、そうでないものを見つけ出すには、熟練した目と、第六感ともいうべき感覚に裏打ちされた、一種独特の技術を要する。そういった欠点の度合いを判断するには、連想ゲームさながらに勘を働かせることもある。
夏のセリに馬を買いに来る人間はたいてい、アドヴァイザー、獣医、馬鑑定の第一人者からなる一隊を引き連れている。バイヤーはセリの一か月前に送られてくる名簿を見て、あらかじめ買いたい馬を選んでおく。その馬をセリの前に何時間、ときには何日もかけて調べあげるのが、随行者たちの仕事である。
牧場の二歳馬はブラシをかけられ、櫛ですかれ、ピカピカになるまで磨かれた状態で馬房から客の前に引き出されるが、セリ前の下調べをする者たちは値段を見積もりながら馬体にくまなく目を配り、必要なときにはそばに近づいて、ダイヤモンドの原石でも鑑定するかのようにデリケートな手つきで脚部に直接さわってみる。、
馬体鑑定の専門家のいう理想的な特徴を以下に挙げておこう。
*目は明るくキリッとしていること。これは賢さと闘志を示す。
顎はたっぷり息を吸い込めるよう是しく張っていること。
頸は長くスッキリ伸び、適当な角度で肩につながっていること。
これはバランスをとるのに欠かせない条件である。
胸は肺活量が豊富になるよう幅広く深いこと。
推進力のもとになる肩と後躯は、肉づきが良いこと。
とりわけ重要な脚部は、極限のスピードで何百キロもある体重を支えられるよう四肢そろって頑丈で、真っ直ぐ伸びていること”
これらの長所を全部備えていても、それがレースの成績に直結するという保証はどこにもない。セクレタリアトとバックパサーは体形的にはほぼ完璧で、その外貌にふさわしい成績をあげたが、なかにはセリ会場で一番立派に見えても、いざ実戦になると関係者をがっかりさせる馬もいる。
逆に欠点がありながら成功した馬の例もある。
マンノウォーの孫シービスケットは、生まれたときには頭デッカチの短足で膝もゴツゴツしていたが、実際に走らせてみると世界一の賞金獲得馬になった。アソールトの右前肢は発育不全で蹄壁が薄かったため、装蹄師は鉄釘を打つ場所を探すのに苦労しなければならなかったという。それでも一九四六年の三冠達成に支障はなかった。
セリに出る二歳馬は特別な飼料で肉づきを良くされているため、とても二歳馬とは思えない、すぐにもレースに使えそうな体つきをしている。気の良いバイヤーはこれにだまされるかもしれないが、目の肥えた者なら単に贅肉がついているだけなのを、すぐ見抜いてしまう。もっとも、普通セリには露骨なごまかしが比較的少ない。いくら責任は買い手にあるといっても、生産者は肉体的欠陥のある馬を取り繕ってまでセリに出そうとはしまい。そんなことをしたら評判が台なしになるからだ。
セクレタリアトは、種牡馬としてはBCディスタフに勝ち北米年度代表馬になったレディーズシークレット(Lady’s Secret)、1988年プリークネスステークス・ベルモントステークスを勝った米二冠馬リズンスター (Risen Star) などの活躍馬を輩出したとWikipediaにはあります。
また、母の父としては代表格にストームキャット、エーピーインディ、サマースコール、ゴーンウェスト、セクレト、チーフズクラウン等がいる。ストームキャット・エーピーインディ・ゴーンウエストらはそれぞれ種牡馬として抜群の成績を挙げており、現在の世界競馬に於ける影響力は非常に大きなものがある、とも。
しかし1989年秋、19歳で亡くなった。日本にも産駒が何頭か輸入されたが、重賞を3勝したヒシマサルが目立つ程度で、それ以外の産駒の目立つ活躍は無かったとのこと。
最後に1つだけ紹介して本書の紹介を終わろうと思います。
スティーヴン・クリスト著『ホース・トレーダーズ―アメリカ競馬を変えた男たち』より
この十年間、生産産業の最上層部から産み出される数字はどんどん増大していったのに対し、北米105の競馬場の売上高にみられる数字にはがっかりさせられるばかりだった。競馬場の入場者は顔ぶれが変わらないうえ、数も徐々に減っている。売り上げの伸び率はインフレ分を差し引くと帳消しになってしまう。
統計上ではサラブレッド競馬は依然としてほかのどのプロスポーツより人気が高いが、その数字は少しも現実を反映していない。それらの数値を担っているのは各競馬場の昔からの固定ファンで、流動的な幅広いファン層があるわけではないのだ。もっと困ったことに、この固定ファンを分析してみると、社会的経済的にはピンからキリまでそろっていても、彼ら全員にひとつだけ共通するものがあった――年齢である。毎年、平均年齢が上昇していることでわかるように、競馬には新しいファンを惹きつけるだけの魅力がなかった。
競馬そのものは、最大限に拡張されてきた。1970年代に入ると、北東部諸州をはじめ、少しでも歳入を増やしたい州では、競馬が特定シーズンだけのゲームから年中行われるゲームに変わった。ニューヨーク地区は十二、一、二月がシーズンオフだったが、現在では吹雪のときでさえ週に六日は競馬が行われている。また賭け方にも工夫が凝らされ、毎日おびただしい種類の馬券が発売されるようになった。
たとえば、一着と二着を当てるイグザクタ(連勝単式)、一着から三着までを当てるトリフェクタ(3連勝単式)だと高配当を狙える。だが、何をやっても無駄だった。入場人員数や売上高は慢性的に伸び悩んでいたが、競馬の将来を暗くしていたのはこうした統計上の数字だけではない。
アメリカのギャンブルに流れるドルに目を付けて、州発行の宝くじが全国的に発売されるようになったのである。また1976年にはニュージャージー州がカジノを公認し、さびれた海水浴地アトランティックシティがギャンブル街に生まれ変わると、周囲200マイル圏内に住む1600万の州民はそこに群らがっ ていった。
競馬が不振に陥った最大の原因は、数十年前のテレビ普及時代に遡る。競馬場関係者は、テレビが出回りはじめたころにひとつの大きな間違いを犯した。レース中継を拒んだのだ。もしファンが家で競馬観戦できるようになったら、競馬場に行かないで賭ける方法を探し出すのではないかと、彼らは恐れていた。目先のことにとらわれたばかりに、結局は実物以上に引き立ってみえるメディアを通して競馬を広めるチャンスを自ら潰してしまったのである。色彩豊かな画面で炸裂するドラマをみせられる競馬ほど、テレビにふさわしいものはない。今日でも、新聞や雑誌に載るテレビの広告には、その画面に競馬のワンシーンが使われるほどである。
以前、競馬がテレビに背を向けたことは、あとになって高くつくことになる。1960年代から70年代にかけて、フットボールをはじめ、ほかの競技はテレビ中継で人気が出たのに、競馬はますます目では追えないスポーツになっていった。また代価はそれだけにとどまらない。ここ数十年の間に、スポーツ界とマスコミは、競馬が大衆化したスポーツや娯楽の主流から外れているという認識をつくり上げ、競馬にもっと大きなダメージを与えた。競馬は野球やフットボール、テニス、ホッケーなどと同じ次元のものではない。確かに競馬はほかのスポーツと違い、三冠というもので年に三回は世間に認められる。だがその点を除けば、ギャンブル用のいかがわしい娯楽であり、暇を持て余した金持ちの道楽だというのである。
セクレタリアトは全米の関心を集め、馬券の売り上げを伸ばしたが、引退してしまうと再び競馬は忘れられた存在になった。新しい拡張事業はさして効果が見られなかった。特にアメリカ最大の都市で試みられた措置は、うまくいけば競馬産業に革命を引き起こすはずだったのに、結局は市民に混乱を招いただけで、いまでも競馬の普及を妨げている。
ニューヨークでは、競馬産業の将来を担うモデル事業として場外馬券投票(OTB)が導入された。イギリスやフランスでは町のいたるところに馬券を発売する店があるので、ファンは新聞を買う気安さで馬に賭けられる。このおかげで気軽に競馬を楽しむファンがどんどん開拓されてきたし、そもそも店やパーラーで競馬を観戦することじたいが日常生活に溶け込んでいた。
競馬場の入場者は減ってきたものの、競馬場側は場外施設から馬券収益の分配を受けている。ニューヨークが場外馬券投票(OTB)を採用した目的は、1970年に三億ドルに達していた財政赤字を一挙に解消するためだった。州側の説明によれば、場外馬券投票(OTB)の売り上げで州の財源を潤し、合法的な馬券発売で違法のノミ屋を一掃できるはずだった。
ところが、目的はひとつも達成されなかった。ニューヨーク地区の競馬場は協力するどころか真っ向から対立したのだ。馬券収益が場外馬券投票(OTB)に流れるうえ、入場者は減るし、営業許可料もとれないとあって、競馬場側は憤慨した。また州は的中馬券に法外な付加税をかけた。これでは法の名のもとに的中者に対して罰金を課すようなものではないか。ノミ屋追放の建て前などとんだお笑い種である。今日にいたっても、場外の払い戻し率は場内より低い。その差は5%といわれているが、時と場合によれば、50%にもなる。場外馬券投票(OTB)の発売所へ行く客より、場内と同じ配当をくれるノミ屋の客の方が多いのは当然だろう。
州政府の新設機関としての場外馬券投票(OTB)は、たちまちニューヨーク州雇用職員の最大のゴミ捨て場と化した。その結果、呆れ返るほど無駄が増えて能率が悪くなり、1984年には赤字寸前にまで陥った。市内に約150か所設けられていたパーラーと称する馬券発売所に一歩でも踏み入れれば、その実態は一目瞭然である。そこには椅子もなければ洗面所もなく、まして軽食喫茶やほかの娯楽設備などあろうはずもないのだから、瞬く間に市民にとっては覗き見専門の店と変わらぬ存在になってしまった。
自称馬券派の多くが場外を避け、相変わらずノミ屋に賭けているのも無理はないし、もっと悪いことに、競馬から遠のくファンも多かった。場外馬券投票(OTB)開設以来15年たったが、百害あって一利なしの見本のようなものを導入しようという州はひとつもなく、場外馬券に託せる望みは全面的に断たれてしまった。
いっぽう、場外馬券投票(OTB)の縮小版ともいうべき同時中継は、1982年に始められて以来、急速に広まりつつある。これで競馬場にいるファンが他競馬場から中継されるレースにも賭けられるようになったのだが、その売り上げは大競馬場の収益の10%にも満たないだろうし、主要都市に場外馬券売場を組織的に設置した場合に見込まれる収益に比べれば、増収といっても雀の涙ほどでしかない。
こうした世の中の流れや動きがのちにアメリカでブリーダーズカップ誕生に向かわせる力になっていくんですね。本書ではそれらにも詳しく触れています。そのブリーダーズカップの開催までにはまだ幾多の困難も待ち受けているのですが。
衰退する業界にはいつだって将来の見通しの暗い、目先のことしか考えない者やグループがトップに居座っているものです。己の利益だけに目がくらみ、スターが出てくればしがみついて搾り上げ、スターが引退すれば、業界が廃れていく。現在、地方競馬界は1993年のどん底からのV字回復に沸きに沸き、バブルの頃の売上をまさに抜き去ろうとしている勢いです。
現状、浮かれに浮かれ、いずれまた冬の時代がくるでしょうが、その時は世間からトドメを刺されるかもしれないですね。
すでに場外馬券場はトドメの「トド」くらいまで刺されていますから。
地方競馬全体がまた下り坂になってのっぴきならない状況になったら、
— 須田鷹雄 (@sudatakaoshoten) September 11, 2022
「ばんえい潰してサラ土日場の売り上げ増やそうぜ」
という話は出てくると思う。いま具体的にそういうプランがあるわけじゃないけど、かといって全く根拠なしに言ってるわけでもない。
露骨に潰しにいかなくても、追い込むとか。
大改革 3歳ダート三冠競走を中心とした2・3歳馬競走の体系整備
セクレタリアトがいた時代のアメリカ競馬の様子に興味を持たれたら、ぜひスティーヴン・クリスト著『ホース・トレーダーズ―アメリカ競馬を変えた男たち』をお読みください。
また、セクレタリアトの映画もありますのであわせてご覧ください。

1970年代に活躍した、今なお史上最強馬とも言われている伝説のアメリカの三冠馬“セクレタリアト”と、当時男性社会であった競馬界に、夢を実現するために飛び込んだ一人の女性との奇跡の物語です。史上9頭目、25年ぶりのアメリカ三冠馬となり、40年近く経った現在でも破られていない驚異の記録を持つ奇跡のサラブレッド。そして、その馬に夢と希望をかけた人々の感動の実話を初めて映画化しました。
