アート・マシューズはイギリスでも有数の競馬騎手だった。その彼が自殺した。それも競馬場の下見所の中央、観衆の面前で。半狂乱に陥り、おちぶれ、あるいは死んでゆく騎手たち――彼らを恐怖のどん底に追いやる。アメリカ探偵作家クラブ賞受賞

ディック・フランシスの初期、第2作にあたるのが本書『度胸』です。英語版の原題は『Nerve』(神経)となっています。読んでても怖いくらいの感じです。内容は読んでいただくとしていくつか本書の凄みを感じる部分を紹介しましょう。
人によって相違はあるが、度胸とは、意志の力によって恐怖を克服するか、完全なる想像力の欠如を意味する。障害騎手である場合、どちらの種類であろうとかまわない、要はあればいいのである。
一人の男が勇敢であり、一人がそうでない場合、その理由を知っている者がいるであろうか?
また、一人の人間が、ある時は勇敢であり、ある時は臆病になる理由が理解できる者がいるであろうか?
すべてはホルモンのせいかもしれない。一度頭を強打すると、勇気を造出する化学成分が破壊されるのかもしれない。そうでないとは誰も言い切れない。
最近のレースの観客すべてが目撃しているように、障害騎手が度胸を喪失した姿は哀れというほかはない。当人としてはいかんともしがたいような状態になった人間に対し同情はするが、同時に、その人間が引き続き騎乗の機会を求めて出場するのが正しいことであるかどうか、考えざるをえない。
大衆は、賭け金に相当する公正な競走を期待している。騎手が、自分を傷つけることを恐れて力いっぱいの騎乗ができないのであれば、その人間は騎乗料を詐取していることになる。
いずれにしても、そのようなことは時間が解決する。馬主、調教師がそのような人間に騎乗の機会を拒否することにより引退を強制し、競馬愛好者の金が浪費されることを防いでくれるはずである。当然そうあるべきだ!
剃刀で切ったような至言だと感じます。厳しいけれど、金をとって見せるレース、興行の厳しさ、体験したものだけが感じる厳しさという感じですね。

地方競馬の全主催者が、厩舎地区の管理徹底・再点検など、公正確保に係る取組みを行っています。
もう1つ、ディック・フランシスの現役時代の姿勢を彷彿とさせるようなエピソードを本書から紹介しましょう。
クリスマスがきた。その前の一週間はレースがなかったので、私はケンジングトンで数日すごした。
両親は例によって親しみのこもった無関心さで私を迎え、好きなように振舞わせてくれた。
二人ともぎっしりつまったクリスマスのスケジュールで頭がいっぱいで、とくに母は、毎朝ピアノに向かって、新年最初の演奏会での新しいコンチェルトの練習をした。毎朝正確に七時に始め、コーヒーを飲む短時間の休憩をはさんで十二時半まで続ける。私は、生まれてこのかた無数に経験したように、指ならしの半音と手首をやわらげるためのアルペッジオで目をさまし、ベッドにのんびりと横たわったまま、母が不協和な近代音楽の楽句を一つずつ取り上げて、完全に覚えたと満足でき、音が思い通りの順序で流れるまで各楽節を何度も何度も繰り返すのを聞いていた。
私はその姿を正確に頭の中に描き出すことができる。
カシミアのスエターとスキー・パンツを着て特別製の腰掛に背筋を伸ばして坐り、音以上のものをピアノから聞き取ろうとするかのように首を前に突き出している。曲の神髄を探っている。そういう時は絶対に邪魔をしてはならない。曲の本質を、作曲者の究極的意図を探っているのだ。
それをはっきりと胸の中でつかむと、今度は自分の解釈による装いをつけ始め、完成された概念が鮮明な光を放って現出するまで、音調と情調の対照を鋭く磨き上げる。
母は、子供の頃の私にとって慰安を求める対象ではなかったし、大人となった今の私にさして情にも関心を示さないが、自分自身の行ないによって、人間として大切にし尊敬すべき数多くの資質を現実に見せてくれた。例えば、専門家気質である。目的に対する単純、強固な意志がある。たんに努力することによってより高度なものに到達しうる時、低い水準における満足感を拒否する。
彼女が母としての役割を拒絶したがゆえに、私は若くして徹底的な自主独立の精神を身につけた。そして、聴衆の面前における栄光のかげの骨身を削る努力を見ているがゆえに、自らの努力なくして人生の果実を期待してはならないことを知りつつ成人した。
母親として息子にこれ以上の教えを与えることができるであろうか?
親しみを持った無関心を恨むでもなく、その母親の後姿を教師にして自ら自主独立の精神を磨いた強さがヒシヒシと感じられる実感のこもった箇所ですね。フランシスの小説にはこうしたノンフィクションの厳しさがのぞきます。ただ甘ったるい小説ではない厳しい現実を突きつけるのがフランシスの小説といえましょうか。

最後に本書がアメリカ探偵作家クラブ賞を受賞したゆえんでもある深みを感じさせる箇所を紹介して終わりましょう。物語を読まなければ全体像は理解できないかもしれませんが、背筋がぞくっとする部分でもあります。
私は話した。アートのこと、グラント、ヒーター・クルーニイ、ティック-トック、そして自分のことを話した。
モーリス・ケンプロアのことを話した。「彼は、子供が歩き始める前から馬に乗るような家庭で育ったのです。それに彼は、障害騎手に適した体格をしています。ところが、馬のそばへ寄ると喘息が出るのです。そのために彼が競馬騎手になれないのだということはみんなが知っています。非常に筋の通った理由ですね、そうでしょう? もちろん、喘息もちで馬に乗っているものもいます―喘息くらいでは騎手はやめられないと考えている人間です―しかし、そうは考えないからといって、誰も軽蔑するものはありません」
言葉を止めたが、彼が黙っているので話を続けた。
「誰だって彼にひきつけられます。彼の魅力は、経験したものでなければ想像もできません。彼が話しかけると、人はパチッと目をさましたように顔じゅうが輝きます。競馬会の理事以下、みんなが彼の言葉に耳を傾けます。私は彼が、その影響力を利用して、騎手の性格に関する疑惑の種を植えつけているのだ、と思うのです」
「続けたまえ」クローディアスが無表情に言った。
「とくに彼の魅力のとりこになっていると思われる人間は、調教師のコリン・ケラーと、委員会の一員であるジョン・バラートンです。二人とも騎手のことをよくいったことは一度もありません。私は、ケンブロアが二人を友人に選んだのは、二人とも、彼が植えつけた疑惑をそのまま言い触らして歩く底意地の悪い人間だからだ、と思います。騎手の生活を破壊するような噂の出所はすべてケンプロアだと思うのです。噂の裏付けとなるような事実すら、みんな彼が作り上げたものだと思います。なぜ彼は自分の成功で満足できないのでしょう? 彼が傷つけている騎手たちは、みんな彼に好意をもっていて、彼に話しかけられると嬉しそうです。彼は、なぜそういう騎手連中を破滅させなければならないのでしょう?」
「もしそれが仮説的な質問であれば、私は次のように答える。そのような人間は、自分の父親、そして妹を、羨みかつ憎悪する可能性があり、幼時からその双方の感情を抱いていた。しかし、そのような感情が正しくないことを知っており抑圧するが、不幸にしてその感情を、父のもつ憎い能力、資質と同じ物を具えた人間に向ける。そういう人間は治すことができる。理解し、治療して、許してやることができる」
「私は許せません。必ずや阻止します」
私をジッと見つめていた。「事実を確認すべきだ」親指の爪で上唇をこすりながら彼が言った。
「現在のところは、きみは想像しているにすぎない。また、私はその人間と話す機会がなかったのだから、いまきみにいえることは、きみのケンプロアに対する疑惑が正しいという可能性はある、ということだ。たぶん正しいだろう、とはいわない。彼は社会的に相当の地位にある人間だ。きみは非常に重大な疑いをかけている。きみは、絶対確実な事実を入手しなければならない。それを入手するまでは、きみが自分の内なる弱点に対する言い訳として、自分に生じたことを外部からの悪意によるもの解釈している可能性が残る。いってみれば、精神的喘息だな」
ただの競馬小説ではなく、ミステリーの要素も十分満たしてくれる物語になっていることを感じていただけましたか?
ぜひ一度手に取ってみて下い。図書館にもたいていは置いてありますので。
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