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寺山修司『草競馬で逢おう』

寺山修司とは?

草競馬で逢おう 寺山修司著『馬敗れて草原あり』より

曇天の日ばかり続くと気分が重い。久しぶりに汽車にのってみたくなった。汽車といっても近ごろの汽車は汽笛がないからつまらない。
 
昔の汽車はよかったと思う。青森駅から私のさびしい少年時代の心を通りぬけて東京へ向かっていたころの汽笛はよかったな。あのころ、私は屋根に腰かけて汽笛とハーモニカを吹きくらべていたもんだ。
 
帰る故郷があるならよかろ
おれにゃ名もない親もない
 
私はこんな曲が好きだった。
実際、私には「名もなく、親もなかった」のである。
 
さて、ボストンバッグ一つもって出かけようとしていると、ポストに一通の手紙が入っていた。
差出し人は森誉。住所は千葉県船橋市宮本町船橋競馬場、となっている。
 
私は好奇心からその手紙をもって、まだ店びらきする前の酒場「ファラウェル」へ行った。(ファラウェルは、さらばという意味。ここのマスターが、ファラウェルという馬の穴馬券をあてた金で作った小さなトリスバーである)
 
そこのカウンターに一人で腰かけてさしこむ陽あかりで読むと、その手紙は草競馬の立場を主張したものであった。彼はまず、こう書き出していた。
「貴殿の著書『みんなを怒らせろ』を三月はじめに求め読みはじめたところ、第一章の〈さらばミオソチス〉からトタンに腹が立ってきた。まず小生の商売を述べておきます。小生は貴殿の偏見視している公営競馬(いわゆる草競馬)の騎手です」というのである。
 
彼のいい分は「草競馬と中央競馬を区別し、中央競馬にエリート的特権をもたせようとする貴殿のいい分は、競馬音痴のすることだ」ということである。
 
私の『みんなを怒らせろ』は競馬、ボクシング、野球について書いたエッセイ集で、中でも「さらばミオソチス」という章は、中央競馬の花形だったミオソチスが草競馬に売られたことを感傷したものである。(その中で私は、かつてオールスターにえらばれたような馬がアバラヤのような公営競馬の馬房につながれていることに同情し、往年の流行歌手が地方の裏町劇場で唄っているようだ、と書いたのである)
 
私はミオソチス(忘れな草という意味)という美しい牝馬は、公営で老残をさらしてほしくないと書き、名血の馬の末路には心をくばるべきだ、とも書いた。
 
森騎手はそれに反撃しているのだった。
「暇ができたら私たちの船橋競馬場に足を向けてみなさい。少なくとも、中山競馬場の厩舎より明るく新しい馬房がズラッと並んでいますよ。それに、サラブレッドの競走馬は生まれたときから走ることを宿命づけられているのだ。どんな芝生だろうと、彼らは人間共のケチな詩的良心をこえて、いきいきとして、走っているのだ」というのである。
 
「それに公営にだって、中央の名血とやらのスターを負かす馬はいくらもいる。古くはクモライト、スミダガワ、アラブのトキノサンダー、ホウセント。天皇賞のミッドファーム、オパールオーキッド、タカマガハラ、オンスロート、ダービー馬のダイゴホマレ、ゴールデンウェーブ・・・・・・数えればきりがない」という訳である。
 
私は、この森騎手の激しい口調に好意をもった。彼はどうやら、私の本を読んでアタマにきているらしいが、彼もまた私同様に戦後派らしいのである。彼の手紙はまだ続く。
 
「昭和三十二年ごろと思うが、あのエロか芸術かの武智鉄二の書いた『競馬』という本を読みましたがあの本にも腹が立ったね。あの本では地方競馬は八百長ばかりで見る気がしない。それにくらべれば中央競馬には人為的な八百長はありえないと断言してるんだな。
 
ところが、その本が出てまもなく福島で小田本ほか二、三の騎手が八百長で挙げられた。この時ほど腹の底から愉快になったことはなかったね。ざまあみやがれ、知識人ぶって!と大笑いしました。もっとも、小田本は私の親友だったが……」
 
私は、もしかしたら草競馬に偏見をもちすぎていたかもしれない、と思った。
それは森騎手のいう「騎手も調教師も同じ日本人なのに、ちがうわけがない」という意識とふかいところでつながっている。
 
人によってはそれをコンプレックスと名づけるかもしれぬが実は貧しい家庭に生まれたものにとって、自分の立場を全面的に否定しようとするか、あるいはその中で居直ろうとするかというほどのちがいである。
 
森騎手も私も、たぶん馬でいえば「名血」ではない。むしろ軽半出身の草競馬的な人生を送ってきたのである。
だから私自身、中央で競馬をやっていてもロックフェラーの子のホッカイヒーローだの、ロイヤルチャレンジャーの子のロイヤルジュニアなどのような評判の「名血馬」が出走してくると、それを負かす馬をさがす。そして、国産のトサミドリやタカクラヤマの仔などに期待をかけたりするのである。実際、私は「良家のお坊っちゃん」というのが大嫌いである。
 
スポーツカーのシートにVANのジャットを脱ぎ捨て、ポケットに石津謙介の『男のお洒落実用学』などをしのばせて、ベンチャーズのエレキをききながらファッション・モデルといちゃついている「良家のお坊っちゃん」などを見てると、「くたばれ、名血!」といった衝動にかられてくる。だが、だからこそ、堂々と中央競馬のホームグラウンドで彼らを負かそうとして東京くんだりまで、無一文で出て来たともいえるのである。
 
私は思い立って、草競馬を見に行ってみようと思った。たぶん、そこには「陽のあたる場所」とはべつの、不運なサラブレッドがいることであろう。森騎手は、それを不運だといわぬかもしれぬが、私にはどうしても草競馬というと、さみしい印象がある。
それを打ち消すためにも、どうも出かけてみる必要があるように思われたのである。
 
帰る故郷があるならよかろ
おれにゃ名もない親もない

寺山修司著『馬敗れて草原あり』目次

【私の競馬ノート】
死神
ダービー探偵のでまかせの推理
思い出のバスター
悪の華ジルドレ
戦いを記述する試み

ダービー紳士録
夕陽よ、急げ
競馬新聞の文章
友よ、いずこ ほか

【ケンタッキーダービー報告】
ダンサーズイメージへの賭け
裏切りと謎

【モンタヴァル一家の血の呪いについて】
カブトシロー論
モンタヴァル一家の血の呪いについて

【抒情的な幻影】
抒情的な幻影
英雄裏町に来たり
一時代一レース

【スポーツ無宿】
2人の女
草競馬で逢おう
競馬メフィスト
クリフジはいずこに
畜殺場の英雄 ほか